2008年03月02日

若き弟の悩み

 大学生活をはじめて数年。人ごみにも慣れ、東京という場所にいることについて、何の感慨も抱かなり、大学だとか、行きつけの飲み屋とか、それなりに自分の居場所というやつを持ったりして、すっかり都会での生活にまみれてしまったけれど、未だに慣れないこともある。
 大学のキャンパスの喧噪が、安いスチールドアの向こうに聞こえる。狭いサークルの部室は、僕が吐き出した紫煙で充満していた。箱の中を半分近く灰にしても、全くいい考えは浮かばず、待ちに待った新刊ミステリも、全く頭に入ってこない。
 仕方ないので、書店の栞を挟んで、ごちゃごちゃしたテーブルに、ひとつオブジェを加えてみる。
 そして、もう一本タバコ。
「もー、センパイ、またさぼって『緩慢な自殺』ですか?」
 と、ドアを開け放った瞬間に大きな声を出し、僕の孤独な空間に亀裂を入れたのは、二年後輩の女の子だった。
「あー、残念ながら、まだ生きてるけど」
 小煩い換気扇にあらがうように、言葉と煙を吐き出す。
「ややっ、それは有栖野センセイの新刊じゃないですか! 待望の新作はどうだったですか? やっぱり、往年の切れはなかったですか? それとも、完全復活ですか?」
 放り投げた本を目敏く見つける。
「わからん」
「わからんって、そんな、センパイにも判断が付けられないような問題作?」
「そんなわけじゃなくて、まだ事件も起きてないし」
 正確に言うと、ストーリー的に事件は起きているが、ミステリ的な殺人事件は起きていないという意味だ。
「嘘だっ! センパイがまだ読んでない本を放置プレイにしてるなんて、あり得ない! しかも、有栖野センセイの新刊を!」
 びしっ、という効果音でもつけてやりたくなような、見事なポーズ。
「残念だったな。これが全然あり得る。というより、今まさにその状態。まだまだ名探偵にはほど遠いな」
 と、名探偵に憧れて、自らも名探偵を目指し、ミステリ研に入部するという今時珍しいくらいに間違っている彼女をからかってみる。
「むむむ。やはり、名探偵の道は一日にしてならずですか」
 そう言いながら、隅っこに座り、何事かを思案する顔。
「じゃあ、一体何を悩んでいるんですか?」
 しかし、こんなふうに唐突に言い始めるあたりが、名探偵の資質あり、か。
「いや、別に、悩んでるわけじゃないし」
「そんな嘘、このワタシには通じないですよ! センパイが何よりも好物のミステリを読めないほどの状況なんて、何かに悩んでるくらいしか思いつかないですよ!」
「うーん。そんなことはないんじゃないか? 突然目が見えなくなって、読みたくても読めないとか、そういうこともあり得る。早計に結論を出してはいけない」
「ははは、そんな嘘はワタシには通じんよ! というより、そんな言い訳を始めるあたり、図星じゃないですか?」
 じりじりとにじり寄ってくる。
「だから、なんでそう言える?」
 との問いに、自信満々でこう答えた。
「それは、名探偵の直感です!」
 ──やはり、僕には名探偵と女の考えはわからない。そう悟った。

「だったら、一体何に悩んでいるか当ててみろよ」
 どうせ本も読めないような状態なんだから、後輩で遊んでみるのも一興。
「そうですねー。一般的に大学生の悩みと言えば、男女関係とか、学校の成績とかが一般的ですよねー。あと、哲学的な悩み──自分のアイデンティティとかそういうのもありますねー。で、センパイの場合は、まず学校の成績は除外できるっと」
 指をぴこっと折る。
「どうしてそう言える?」
 ミステリ研らしく、論理的な説明を求める。
「そんなの簡単ですよ。センパイが成績のことで悩むような人なら、ずっと前に悩みまくって若きウェルテルですよ。緩慢な方法じゃなくて、もっとはっきりくっきりすぱっと自殺ってるんじゃないですか?」
 確かに、反論できない事実だが、二年前の僕よりも低空飛行の彼女には言われたくない。
「ま、まぁ、そこは認めてやるか」
「いやいや、ワタシも、センパイという人がいて、ずいぶん勇気づけられてますよ。こんなにダメでも大学にいていいんだって」
 いや、それ、フォローになってねーし。
「哲学的な悩みというのもないんじゃないですかねー。確かに、自殺した作家の小説とか自殺したアーティストの音楽とか、そういうのは大好物みたいですけどー。というより、いっつも思ってるんですけど、かなり趣味悪いっすよー」
「何っ! 貴様っ! カート・コバーンを侮辱するかっ!」
「そんなつもりはないっていうか、誰ですか、それ?」
 ……最近の若者は、ニルヴァーナも聞かないらしい。
「と、話を戻すと、そんな方向に悩むような人なら、とっくにメンタルってるはずだから、これも違う、と」
 さくっと話を流される。
「説教したいことは山ほどあるが、じゃあ、いったい何が原因で悩んでるって言うんだ?」
 ここは、ぐっと我慢するのが大人。
「ふふふ。残される可能性はひとつ! ずばり、男女関係ですね!? いったい、どこの誰に一目惚れしたんですか? あ、もしかして、ワタシ? あ、あの、何ていうか、ワタシ、センパイになら……」
「いや、それはないから安心しろ」
「ひどっ! 安心しろと言いながら、全く安心できないし、ぐさっと胸に突き刺さる一言っ! この、鬼畜がっ」
 彼女の言葉も十分にひどいと思うが。
「──言いたいことは、それだけか?」
「あ、すいません、ちょっとはしゃぎすぎたですよ。でも、センパイが悩んでるなんて、ちょっと珍しくて、つい……」
 そう言いながら、ぺろっと舌を出す。
「でも、ちょっとだけ本気ですからね」
「そういうのは、もっと雰囲気を作ってから言う方が効果的だぞ」
「って、ここは、聞こえていたとしても、わざと聞こえないフリをして、『何か言ったか?』『い、いえ、なんでもないです』って、お約束青春ドラマを演じてみるところじゃないですか!」
 残念ながら、トレンディドラマの役者でもないんで、そういうのはお断りだ。

「それにしても、ほんとに何なんですか? 待ちに待った新刊、ダメだった場合が怖くて読めないとか?」
 うーん。さすがに、これ以上引っ張るようなネタでもないし、こんな後輩でも一応は女、もしかすると、いい解決策を出してくれるかもしれない。
「いや、実は、もう三月だろ」
「そうですねー。せっかくの春休みなのに、無駄に過ごしてますよねー」
「で、三月には、ホワイトデーがあるだろ」
「うわー、ワタシの発言は、右から左に受け流しますかー。って、ホワイトデーって、何ですか!」
「ホワイトデーはホワイトデー。お菓子メーカーの販促戦略」
「いや、いくらワタシだってそれくらい知ってますよ! と言うより、ミステリ研で配ったバレンタインのお返しに何をもらえるか、今からドキドキですよ! ……もしかして、ワタシへのお返しを何にするか迷ってるんですか? それなら、ワタシ、センパイからの愛がもらえれば……」
「一般的な女の人って、どんなお返しがいいのかな?」
 後半は聞かなかったことにして訊いてみる。
「だから、ワタシはセンパイの──」
「お前じゃなくて、普通の人の場合を訊いている」
「うう、センパイのいぢわる……。
 でも、ということは、誰かにお返しするんですよね? ということは、誰からかバレンタインのプレゼントもらったってことですよね? 誰ですか? サークルの人? 学部の人? それともそれとも……」
 こいつも、やはり女の子。いわゆる色恋の話には飛びついてくる。
「そんな詮索はいいじゃないか。それよりも、どういうのがいいんだ?」
 しかし、それにつきあってやる義理はない。
「でも、相手がどういう人かわかんないと、やっぱり考えられないですよ? ワタシは、メリヴェール卿じゃないんですから」
 巨漢の名探偵が、女心に聡かったかどうかは疑問だが。
「しかしなぁ」
「別に、変な詮索しようっていう訳じゃないですよ。ただ、一般的な女の人っていっても、女子高生とOLじゃ、欲しいものが違うじゃないですか?」
 まぁ、確かに彼女の言うことにも一理ある。
「そうだなぁ……相手は、三歳年上で……」
 仕方なしに、話し始めるが……
「うおっ、いきなりの年上好き告白ですか! ワタシの方を向いてくれないのは、それが原因ですか!」
「……やっぱり、いいや」
「いや、すいません。黙って聞きます」
 ちょっと反省してるような表情。
 誰かの知恵を拝借したいのはやまやまなので、許してやることにする。
「まぁ、それで、一応働いている人で、バレンタインのプレゼントもらったんだが、それが、意外に高いもので、一体何を返していいのか悩んでる」
「うーん。それだけじゃあ、全然わかんないですよ。相手の人が、一体どういうのが好きなのか? とか、そう言うのがわかんないと、効果的な対策もたてられないですよ」
「何が好きか、かぁ。そうだなぁ。改めて考えてみると、なかなか思い浮かばないなぁ」
「それじゃあ、何をもらったんですか? プレゼントって、相手の好きなものっていうのもあるけど、自分の好みとか結構出るもんですよ」
 おお。それはいい考えだ。
「ああ。もらったのはこれ」
 そう言って、首からチョーカーを外して彼女に見せる。
 小さなシルバーのプレートがついた、シンプルなやつ。普段、アクセサリをつけない僕でも、それほど気にせずつけられるようなやつだった。
「うおー、ちゃんと普段からつけてますか! もう、ラブラブじゃないですか! って、すいません。それにしても、こういうのですかー。ふーん」
 普段からつけているのは、つけていないと怒られるからで、それを言うと、また彼女がヒートアップしそうなので黙っておく。
「で、どうだ?」
「そうですねー。アクセをもらったんなら、普通にアクセでいいんじゃないですか? ピアスとかリングとか。無難ですよ」
「そんなもんかぁ……。じゃあ、今週末でも買いに行くかなぁ」
「じゃあ、そのときはワタシも一緒に……」
「それは却下だ」
「ひどっ。せっかく相談に乗ってあげたのに! そこから始まる恋があってもいいんじゃないですか! って、そっか、もうセンパイはそのOLさんのものなのね……」
 よよよと泣き崩れる。
「いや、なんか誤解してるみたいなんで、言っておくけど、別に、恋人とかじゃないぞ」
 この状況を放置すると、次の日には、OLと恋に落ちている自分が、知らぬ間にキャンパスを一人歩きしている。
「え、じゃあ、一体どんな関係の人なんですか?」
「姉ちゃん」
「え?」
「だから、姉ちゃん。姉。女の兄弟」
 まったく、働き始めてお金に余裕ができたからなのか、いきなりアクセサリーとか、お返しに困るようなものを──
「……っ」
 と、彼女の様子が少しおかしい。いや、おかしいのはいつものことだけど、そう言うのとはちょっと違う。
「おい、どうした? 何か変なものでも食べたか?」
 先輩として、こういうときはしっかりしないと。
「って、違うわー! このブラコンシスコンがーっ! 紛らわしいわーっ!」

 そんなわけで、結局次の日には、姉とラブラブな僕がキャンパスを闊歩し、三月十四日には、姉がピンクシルバーのリングを左の薬指にはめようとするのを全力を持って阻止しなきゃいけない状況になったりしたが、がんばれ、僕。

"White day panic!" is over.
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posted by 言人 at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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