2005年07月25日

桜山城の姫君

「ねえ、帰りましょう?」
 凪姫が佳姫の袖を引く。一晩中引かれ続けた袖は、もう、何千丈にも伸びてしまったかのようだった。
「あともう少しで朝になるのだから、それまで我慢よ」
 もう、何回凪姫に同じ言葉で言い聞かせたことだろうか。
「でも……」
 泣きそうな顔でうつむく凪姫。
「大丈夫よ、何も怖いことなんてないわ。もうすぐ朝になって、きれいな桜のお姫様が会えるのだから、ね」
 佳姫はそう言って凪姫の頭を撫でる。彼女は、凪姫のしっとりと濡れたような、なめらかな髪の感触が好きだった。
「−−うん」
 凪姫は、弱々しくも頷いた。
「そもそも、桜山城の精霊姫に会いたい、と言い出したのは凪姫でしょう?」
「うぅ、佳姫のいじわる」
 その拗ねたような表情を見て、佳姫は少し安心した。

 −−桜山城の精霊姫。
 それは、この国に言い伝えられている伝説のひとつだった。
 城下町のほど近くにある、うち捨てられた古城・桜山城。
 その起源も、いつ捨てられることになったのかも、何もかもが正しくは知られていない。
 知られているのは、春に咲く桜が美しいということと、精霊の姫が棲むということ。
 その姫は、現世のものでは至ることのできない美しさで、男を惑わすと言う。それ故、春の桜の美しさにもかかわらず、花を愛でに訪れるものは皆無であった。
 実際には、桜山城を訪れた男たちはいた。しかし、男たちのほとんどは戻ってこず、戻ってきた数少ないものたちも、貝のように口をつぐむか、もしくは気が違って言葉を解することができなくなっているかのどちらかだった。
 美しいものを見たいのは、男も女も同じであった。
 男たちには、精霊の姫を己のものにしたいという欲望もあったかもしれないが、女たちは、精霊の姫に憧れ、夢見がちな頃には、精霊の姫にお仕えしたい、と瞳を輝かせる少女もいた。
 そして、いつからそのような話ができたのだろうか。
 −−桜山城の精霊姫は、その気高さ故に人間の男と交わること許されず。
 その禁を犯した人間は、その咎を背負うことになる。
 貞淑な少女のみが、その側に控えることを許される。
 桜山城の精霊姫は、男子の犯さざるべき道を説き、女子にはあるべき姿を示す存在となっていた。

 佳姫も凪姫も、精霊姫の側にいられるような立派な姫になるように、と言われ育てられてきた。それは、この国の姫たちが当然のように言われることであった。
 凪姫が他の姫たちと違ったのは、皆は精霊姫などお話しの中だけの存在、実際にはいない、と考えていたのに対して、彼女は本当に精霊姫はいて、自分はいつか、精霊姫のもとに仕えるのだ、と信じていたことであった。
 凪姫が語る精霊姫との桜山城での暮らしは、絵巻物の中にしかないような、雅で穏やかな毎日だった。 屋敷が隣同士で、凪姫を妹のように思っていた佳姫は、そんな凪姫の話をいつも聞いていた。夢を語る凪姫の瞳が大好きだった。
 なのに、彼女は夢の中に生きている妹をこの場所に連れてきてしまった。仕方のないことだ、と自分に言い訳してまで。
 最近、隣国との関係が良くない−−はっきり言うと、最悪、戦の一歩手前まで来ているということを、佳姫は大人たちの会話から漏れ聞いていた。そして、もし戦となれば、隣国にこの国が蹂躙されることも、勘付いていた。むしろ、今までそうなっていなかったことが奇跡だったのかもしれない。もしくは、戦乱の世を終わらせるという隣国の覇王の気まぐれか。
 凪姫が精霊姫との生活を夢想することも、佳姫がそれを暖かく見守ることも、もうすぐできなくなるはずだった。
 その前に、佳姫は凪姫を桜山城に連れて行ってやりたかった。
 凪姫なら、崩れ落ちた城跡からでも、いつか訪れたであろう生活を見て、それを支えに生きていけるだろうと思ったから。
 もし−−もし本当に精霊姫がいたならば、それはそれで良い。凪姫は精霊姫の側にいるのにふさわしい姫なのだから。

「ねえ、朝はまだなの?」
 葉桜の山を登り、崩れかけた石垣を越えてたどり着いたあばらやで、二人は肩を寄せ合っている。このあばらやが元々城の建物のひとつだったのか、それとも後の人が作ったものなのか、佳姫は知らなかった。
「あとひと刻もせずに明けるわ」
 着物の袷をぎゅっと握る。こんなに夜が寒いとわかっていれば、もうひとえ重ねてきたのに。
 −−精霊姫は夜が明ける刹那にだけ、その姿を現す。
 凪姫にそう信じさせたのは佳姫で、そのことを伝えたのは、昨日の夜だった。
 はじめは、この古城の有様を見て、それで終わらせるつもりだった。
 けれど、この場所に着いてみて、佳姫は待ってみようと思った。
 凪姫に、精霊姫は夜明けに現れると説明しながら佳姫は気が付いていた。自分も、精霊姫の存在にすがりたくなっていることを。
 自分や凪姫の将来は明るくはない。この夜のような待っていれば明ける暗闇ではなく、永劫明けることのない闇が待っている。戦に敗れた国の姫の運命は、悲しいものしかない。数十年の間艱難辛苦に耐えることになるか、それとも幾日も待たずに殺されるか。どちらにせよ、最期の時まで持っていられる思い出が欲しかったのかもしれない。
 このまま永久に待ち続けることができたのなら−−佳姫はそう思う。
 待つ、という行為がこれほどに希望を持っているのだとは知らなかった。
 大切な凪姫がいて、彼女は自分の夢がかなう瞬間を、怖がりながらも期待に胸をふくらませて待っている。今、この場であるのなら、妹のように大切な凪姫の頭を撫でることも、抱き寄せることもできる。
 でも、これから先は?
 隣国の者に捕らわれて、離ればなれになってしまったら?
 凪姫の大きな瞳からこぼれる涙を拭いてあげたり、流れる黒髪を梳って慰めることも、何もできない。佳姫には、自分がどのようなひどい目に遭うことよりも、そのことの方が怖かった。

「空の色が変わってきたわ」
 凪姫が嬉しそうな声を上げる。
 その言葉通り、漆黒の闇は濃い宝石のような青に変わりはじめ、煌めいていた星たちは舞台から退場しようとしていた。
「……もうすぐね」
 葉桜の城の中、佳姫はもうこれ以上空が青くならないことを祈りながら答えていた。

"Silent dream" is over.
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posted by 言人 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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