2007年08月24日

その時に

──「彼」と、あの頃のボクたちに

 時計の針は、すでに午後十時過ぎを指していた。
 同僚を送り出したのが午後七時頃だった。それから三時間近くも、ひとりでPCのディスプレイに向かっていたという事実に気が付いて、溜息をついた。翌週に控えた東京出張で必要となる資料の準備だった。
 今日はこれくらいにして、明日、少し早めに来てやれば──と考える。
 早く来たとしても、また新たな仕事が次から次へと積み重なり、結局今日と同じくらいの時間まで働くことにはなると思うが、それでも、一度切れてしまった集中を再度元の状態に持っていくのは至難の業だ。そして、精神だけではなく、身体も悲鳴をあげている。肩は拘束具をつけられているかのように固まり、ディスプレイの文字は、目をこらさないと霞んでしまって、まともに判別できない。
 ぬるくなった缶コーヒーを飲み干しながら、OSをシャットダウンする。
 デスクの上を、簡単に片づける。
 売り上げのグラフを印刷したものをクリアファイルにしまったところで、卓上の電話が鳴った。
 こんな時間に?
 疑問に思いながらも受話器を持ち上げる。
「はい、H保険事務所です──」
 それは、時と場所を選ばぬクライアントからの呼び出しの電話だった。
 腕時計を見ながら、今日何度目かの溜息をつく。
 これから、クライアントの元へ向かい、手続き書類を作成して……家に帰るころには日が変わっているだろう。手早く、携帯電話から妻にメールを送る。
 結婚してから早半年。もう、何回今夜のような寂しい夜を過ごさせてしまっているだろうか。申し訳なさと、仕方のないという思い。こうして忙しいのが、自分の仕事なのだから。彼女も、こういうものだと理解した上で、自分との結婚を了解してくれたのだ──自分にそう言い聞かせる。
 引き出しから、車のキーを取り出し、事務所をあとにする。
 電気を消し、鍵を閉める。
 クライアントに寄ったあとは、直接家に帰ろう。
 書類などは、明日の朝に処理すれば問題ないだろう。
 事務所の駐車場に停めてある自分の車に乗り込む。
 スポーツタイプの車。キーを回すと、低いエンジン音が唸りを上げる。
 鼓膜と足裏から感じる回転数をタコメーターで確認する。
 軽くレッドの手前までふかしたあと、エンジンと心を落ち着ける。
 静かにクラッチを繋ぎ、アクセルを踏み込む。ゆっくりと、車を走らせはじめる。ウィンカーをあげて、車線に踏み込む。
 この時間の地方都市は、ある程度の幹線道路と言えど、走っている車の数は少ない。自然とスピードが上がっていく。
 何を急いでいるのか。
 何に追われているか。
 子どもの頃から見知った風景が流れていく。
 父親がやっていた仕事を、そのまま受け継ぐのが当然だと思っていた。いや、何度か反抗もしたが、結局はそのようになった。
 今の自分に不満はない。
 むしろ、満足している。
 仕事は順調だ。
 市の青年会議所メンバにもなった。
 結婚もした。
 両親に孫の顔を見せてやれる日も遠くはないだろう。
 幸せ。それは、こういう日々のことを言うんだろう。
 確かに、仕事は忙しい。今日のように、妻の顔をほとんど見られない日も多い。
 けれど、二人は愛し合っている。それに偽りはない。
 少ないながらも休日もあるし、それなりの稼ぎもある。
 それでも、一瞬、何かの折に思うことがある。
 今の自分は、本当にあの頃思い描いていた自分か? と。
 この街を、縦横無尽に走り回った子どもの頃。
 この「街」が「セカイ」で、その「セカイ」の中で、自分たちが「物語」の「主人公」だった。
 自分は、今でも「セカイ」の中心で「物語」の「主人公」でいられるのか?
 今の自分は、国中に何人いるかもわからない、十把一絡げの保険屋のひとりだと自覚している。そんな自分が、「物語」の「主人公」?
 どんなプロデューサーも見向きもしないような、ありふれた自分の人生。
 ひとは誰もが特別? 「セカイ」に「ひとつだけ」の花?
 なら、お前は道ばたに咲く花を、ひとつひとつ見分けることができるというのか?
 嘘。
 ごまかし。
 偽善。
 そんな塗りつけられた人生の向こうに、確かに、自分が「セカイ」の「中心」だった子どもの頃が見えている。
 例えば、あの公園──真ん中に置かれた不格好な遊具は、仲間たちの秘密基地だった。
 そして、これから侵入していくトンネル。
 まだ、建設中だったトンネルに入り込んで、わざわざ狭い空間で野球をした。
 今にして思えば、ドーム球場のつもりだったのかもしれない。
 仲間たちの歓声と、打球がコンクリートの壁に、天井に乱反射していた。
 暗いトンネルの中と、夏の、抜けるような青空。
 冬になる頃には、トンネルは閉鎖され、仕上げの工事が始まっていた。
 ほんのひと夏だけの、遊び場だった。
 ここを走るたびに懐かしく思う。
 あの頃の──自分が確かに自分であった頃を思いだす、数少ない場所だった。
 唐突に、衝撃。
 ハンドルが取られる。
 右の前タイヤがバーストしている。
 パンク? 何か踏んだか?
 考える暇もなく、壁が近づく。
 遊んだ頃にはなかった、ガードレールに鉄製の防護壁。
 衝撃は一瞬だった。
 どこを打ったのかわからない。
 けれども、目が、よく見えなかった。
 音も、よくわからない。
 ──意識が遠くなるというのは、こういうことなのだと気が付く。
 車は、ガードレールを突き破り、鉄の防護壁を引きはがし、その下にあるコンクリートの壁に傷を付けていた。
 あの頃──白球をぶつけていた、あの壁だ。
 最後、彼らと会ったのはいつだっただろうか?
 ああやって、無心に遊んだのは、いつだっただろうか?
 もう、思いだす時間はない。
 ああ、消えていく。
 これが、死ぬということなのだろうか?
 妻に、両親に、友人たちにお別れを。
 そして、あの日の、「セカイ」の「主人公」に「さよなら」を。

 こうして、僕の「セカイ」──「物語」は終わる。

"Last Drive"is over.
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posted by 言人 at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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