2006年11月19日

習作:HTP_001

 ピアノの静かなアルペジオからはじまる第三楽章が彼女のお気に入りだった。ボクは、もうそれを何度聴いたことだろうか。放課後の音楽室に差し込む日の光は、いつでも柔らかく、いつでも優しい。淡く解ける。彼女の白い指。細く、しなやか。なめらかに動き、分散した和音を奏でる。たったひとりしか観客のいないコンサート。客は満足する。しかし、演奏者はどうだろうか? 彼女は、自分の素晴らしい演奏をボクだけに聴かせていて満足なんだろうか。もちろん、彼女だって、いつも僕だけの前で弾いているのではなく、様々なコンクールに出たりしている。それでも、やはりボクの前で弾く時間が一番長いだろう。たったひとりにしか届かない音楽。そのひとりは、音楽なんてほとんど知らない素人。ただ、彼女のピアノの音が好きなだけ。技巧的な、メロディ。平均律に彩られた空間は、何もなかったはずの午後の時間を、じっくりと水彩画のように染めていき、ボクはその彩りの中心となっている、彼女の姿から目を離すことができない。あくまで自然に、指が動く。彼女は、ボクに見られていることを意識しているのだろうか? 当然、隠れてみているわけではなく、彼女の同意の上で、こうして聴かせてもらってるのだから、ボクの存在を認識しているには違いないのだが、それを感じさせないように、彼女は静かに、穏やかに、緩やかにピアノを弾き続ける。鍵盤の音が音楽室の隅々にまで行き渡った頃、第三楽章は消えゆくような余韻を残して終わりを告げた。彼女の指が、そっと鍵盤から離れる。その指に魅せられていたボクは、彼女がおずおずとボクの方を向いていたことに、しばらく気が付かなかった。「ねぇ、どうだった?」先ほどまでの、静かなピアノの方が、雄弁に語っているかのように感じられるほどの声だった。「──ボクは、君が好きなのかもしれない」そう答えると、彼女は驚きの表情を浮かべた。「唐突ね。そう、まるで──前触れのないフォルテシモのよう」音楽に疎いボクでも、基本的な音楽記号の意味ぐらいは知っている。「そんなに突然だったかな?」「ええ。とても突然だったわ」「けれど、今伝えるのが一番良いような気がしたんだ」彼女は、またゆっくりとピアノに向かった。もう一度、指が鍵盤に降りる。軽快に、跳ねるようなワルツ。イエスか、ノーか。告白の答えは、そのピアノの音が伝えていた。
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posted by 言人 at 02:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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