2010年09月17日

ss07

「遅いな……」
 裕一は、窓から冷たい雨の降る街を見下ろしながら呟いた。
 今日は、それほど遅くなることはないって言っていたのに。
 濡れる街は、彼の心の中までも、じっとりと湿らせていく。
 嫌な考えが浮かぶ。それを、振り払う。まるで、子犬がふるふると水をきるように。
 それでも、裕一は、不安を拭い去ることができない。
 指は、自然と啓一郎がよく座っているソファーを撫でていた。
 その上に座る者を求める。
 雨の街は、薄暗い。
 心に忍び寄る、闇。
 自分が、もう少し大人だったら、と思う。
 そうであれば、啓一郎の帰りが遅くなっても、これほどに不安に思うこともないだろうに。
 ──俺は、そういうお前の子どもっぽいところ好きだけどな。
 啓一郎は、よくそう言って、まるで子どもをあやすように裕一の頭を撫でる。
 その、細いけれど力強い指が、裕一は好きだった。

 がちゃ。
 玄関のドアが鳴る音。
「どうしたの? こんな遅く──」
 裕一は、それ以上続けられなかった。
「──遅くなった。すまない」
 答える啓一郎は、全身ずぶ濡れで、短く刈った髪からは、水が流れていた。
 白いシャツは、透けて、彼の鍛えられた身体に張り付いている。
 濡れるままに任せた、としか言えない。
 冷めていく啓一郎の体温とは裏腹に、裕一の心は、熱くなっていった。

 裕一は、何も事情を話そうとしない啓一郎を、とりあえず風呂にいれ、その間、啓一郎が好きでよく飲むコーヒーを淹れる。
 何があったの? それが聞けない。
 聞いたら、答えてくれるかもしれない。
 でも、それは僕が聞いていいことなの?
 自問自答を繰り返す。
 僕が子どもだから、決断ができないんだ。
 そう、自分を責める。
 外から聞こえる雨音が、彼の精神を責めていた。

 シャワーで身体を温めてきたあとでも、啓一郎は何も話そうとしなかった。
「ねぇ、コーヒーおいしい?」
「ああ」
「今日はね、ちょっといつもとブレンドを変えてみたんだけど、どうかな?」
「ああ、良いよ」
 言葉だけなら優しいかもしれない。
 けれど、啓一郎の顔は伏せられたままで、白いマグカップの中身は、ほんの少し口を付けられただけで、冷めるのを待っていた。

 雨音のノイズ。
 心音のスタッカート。
 浮かんでは、消える言葉。
 形にならない。
 それでも、形にしようとするのはなぜなのだろうか?
 言葉が、繋ぎ止めるから?

「──あの、さ」
 裕一が、すっと啓一郎の隣に座る。
「何?」
 啓一郎は、やはり、顔を伏せたまま。
「僕じゃ、ダメなのかな?」
 無理に、その顔をのぞき込まないように。視線を交えるのが怖いから。
「何が、だ?」
 ゆっくりと、裕一を見る。
 啓一郎が目にした、虚空を見つめるその横顔は、どこか思い詰めたような、そして、何かを決意したような、そんな不思議な表情だった。
「僕じゃ、啓一郎の力になれないのかな?」
 裕一も、顔を啓一郎の方に向ける。
 二人の視線が、絡み合う。
 互いに、見つめる。相手の真意をはかるように。
「そんなこと──お前こそ、俺のことなんて……」
「違うっ!」
 裕一の大きな声に、啓一郎がびくりとする。
「違うよ? 僕は、啓一郎のためになりたいんだよ?」
 ゆるゆると、裕一の小さな手が、啓一郎の頬に伸びる。
「僕は、啓一郎のためなら……」
 その、小さな手に、啓一郎の指が添えられる。
「俺こそ、お前がいないとダメだ……」
 流れる涙。

 冷たい雨は、降り止もうとはしていなかった。
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posted by 言人 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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